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患者さんのクレーム、どこまで受け入れるべき?医療現場のハラスメント対応ラインの引き方

  • 2 時間前
  • 読了時間: 7分

医療の現場に携わる方から、こんな声をよく聞きます。


「患者さんの言うことだから、多少理不尽でも対応しなければならない」「クレームを拒否したら問題になりそうで、とにかく謝ってしまう」「何を言われても患者さんのためだと思って耐えるしかない」。


確かに、医療機関には「応召義務」があります。しかしそれは「いかなるクレームにも従わなければならない」「暴言や暴力を受けても診療を続けなければならない」ということを意味するわけではありません。


この思い込みが、現場スタッフを長期にわたって消耗させ、最終的な離職につながる大きな原因のひとつになっています。



医療現場でのハラスメントは「特殊な事例」ではない

業界全体の調査データを見ると、医療・介護施設の8割以上が「暴力・ハラスメントを経験したことがある」と回答しています。


怒鳴り声、長時間にわたる居座りや電話、特定スタッフへの繰り返しの侮辱、身体的な接触、脅迫的な言動——こうした行為は、決して「一部の特殊な施設だけの問題」ではありません。


さらに深刻なのは、そうした問題が発生しているにもかかわらず、警察への相談や法的な対応に至るケースが全体のごく一部にとどまるという現実です。「大ごとにしたくない」「また来院してもらわなければならないから」「マニュアルに明確な基準がない」「上司に相談しにくい雰囲気がある」——こうした理由から、担当スタッフが一人で抱え込んでしまう構造が、多くの施設で続いています。


この状況が続くと、スタッフの精神的・身体的な消耗が進みます。優秀なスタッフほど「自分が頑張れば」という責任感が強く、より深く傷つくことになります。そして最終的には、医療の質そのものが低下するリスクがあります。患者さんへの適切な医療を提供し続けるためにも、スタッフを守る体制を整えることは、経営的にも倫理的にも重要な課題です。



「応召義務」の正しい理解

医師法に定められた応召義務とは、「正当な理由なく診療を拒否してはならない」というものです。その本来の趣旨は、患者が緊急の医療を必要としているときに門前払いされないよう、医療アクセスを守るためのものです。


「患者さんの暴言・暴力に耐えながら診療を継続する義務がある」「どんな理不尽なクレームにも従わなければならない」——こうした解釈は、応召義務の本来の意味から大きく外れています。厚生労働省の通知においても、著しく不当な要求や暴力的な言動に対しては「適切に対応することが求められる」と明示されており、そうした行為がある場合には診療継続の可否を施設として判断できる余地があることも示されています。


「断ったら応召義務違反になる」という誤った思い込みは、スタッフを不当に傷つけるだけでなく、組織全体のリスクにもなります。応召義務の正しい理解を管理職・スタッフ全員で共有することが、健全な対応の第一歩です。



「正当なクレーム」と「ハラスメント」の境界線

クレームとハラスメントの境界線は、「何を言っているか(内容)」ではなく、「どんな手段で表現しているか(方法)」にあります。この区別が明確でないと、正当な不満の声を無視したり、逆に理不尽な要求にずっと付き合い続けたりという、どちらにとっても不幸な状況が生まれます。


正当なクレームとは、医療内容や施設の対応に対する率直な意見・不満の申し出です。「待ち時間が長すぎる」「説明が分かりにくかった」「対応が冷たく感じた」「処置について十分な説明がなかった」——こうした声は、施設側が誠実に受け止め、改善のきっかけにすべきものです。声を上げてくださる患者さんは、沈黙して離れていく患者さんより、まだ改善の機会を与えてくれているとも言えます。


一方、ハラスメントとは、不満の表現手段が社会的に許容できる範囲を超えているものです。大声での怒鳴り声、長時間にわたる居座りや繰り返しの電話(業務に支障が出る程度)、特定スタッフへの侮辱や中傷、「ネットに晒す」「訴えてやる」などの脅迫的な発言、身体への接触や物を投げる行為——これらは、「クレームという形をとった暴力」です。


重要な判断の軸は2つです。「その不満・要求は医療サービスに関して合理的なものか(内容の正当性)」と「その不満を表現する方法が社会的に許容できる範囲か(手段の相当性)」。この2軸を組み合わせることで、「内容は正当でも手段がハラスメント」「内容も手段も問題がある」「内容は過剰要求だが手段は穏やか」など様々なパターンへの対応方針が見えてきます。内容が正当であることと、手段が適切であることはまったく別の問題です。



「個人の判断と耐久力」に任せてはいけない理由

同じ施設内でも、経験豊富なスタッフは毅然と対応できるのに、新入りのスタッフや配慮が深い担当者は圧力に押されて過剰な謝罪や根拠のない約束をしてしまう——こういったばらつきが生まれるのは、判断の基準が「個人の経験と精神的な耐久力」に依存しているからです。


この状況が続くと複数の問題が起きます。まず「この病院はゴネれば通る」という認識が広まり、問題行動が繰り返されたり、エスカレートしたりします。次に、特定のスタッフだけが矢面に立ち続けることで、バーンアウト(燃え尽き症候群)や離職が起きます。さらに、担当者によって対応がバラバラなことで、施設としての統一した姿勢が伝わらず、信頼性が損なわれます。こうしたばらつきは、クレームを収めるどころか、「担当者によって扱いが違う」という新たな不満を生むこともあります。



「組織の判断軸」を持つことから始める

施設として今すぐ取り組めることは、「どこまでは受け入れる、ここからは組織として介入する」という段階的な判断基準を文書化することです。具体的には、「このような言動があった場合は直ちに上席に報告する」「このような状況では警備担当を呼ぶ」「このような言動が続く場合は警察への相談を検討する」という基準を、施設のルールとして明記しておくことが必要です。基準があることで、担当スタッフは「これは自分個人の判断ではなく、施設のルールに基づいて動いている」という確信を持って対応できます。


また「記録を残す習慣」も非常に重要です。どんな言動があり、どう対応したかを記録しておくことで、同じ人物から繰り返し問題行動があった際に「これは初めてではない」ことを客観的に示せます。記録は後に法的な対応が必要になった場合にも重要な証拠になります。記録があることで「あのとき言った・言わない」という食い違いも防ぐことができます。


スタッフ一人ひとりを守ることと、施設全体の信頼・安全を守ること——その両方のためにも、「組織として対応できる体制」を今から整えることが強く求められています。そのための第一歩は、「担当者が一人で判断しなくていい状況を作ること」です。



スタッフを守る「体制」が医療の質を守る

医療現場でハラスメント対策が重要なもうひとつの理由は、スタッフの離職防止です。理不尽な要求に長期間さらされ続けると、どれほど使命感の強いスタッフも限界を迎えます。「患者さんのために働きたいのに、この環境では続けられない」という思いで離職するスタッフが後を絶たない職場は、人材確保の面でも深刻な問題を抱えます。


施設の安全体制を整えることは、「スタッフが長く安心して働ける環境」を作ることでもあります。スタッフが安心して働ける環境が、患者さんへの質の高い医療を提供し続ける土台になります。



「一件一件の記録」が組織の財産になる

ハラスメントへの対応を振り返ると「あの対応は正しかったか」「もっとうまくやれたのでは」という疑問が生まれることがあります。この疑問を個人の中で消化するのではなく、記録として残し、組織で共有していくことが大切です。


「どんな言動があり、どう対応し、どういう結果になったか」という記録が蓄積されると、施設としての「対応ノウハウ」が育まれます。新しいスタッフが着任したときに「過去にこんなケースがありました」という情報を共有できることは、現場での判断力を底上げします。一件一件の記録が「組織の財産」になっていく——この積み重ねが、長期的な医療現場のセキュリティを高めていきます。

 
 
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